浄土真宗の宗祖親鸞聖人は、承安3年(1173年)、宇治にほど近い日野の地に誕生されました。9歳のときに青蓮院にて出家得度され、比叡山で修行の日々を過ごされました。戦乱による社会の荒廃や仏教の堕落を目の当たりにし、また、尽きることのない自らの煩悩に苦悩された聖人は、六角堂参籠中に聞いた救世観音の夢告にみちびかれて、その進むべき道を法然上人に尋ねようと京都吉水(よしみず)に向かわれました。聖人29歳のことです。
善知識と仰ぐ法然上人との出遇いを通して、聖人は本願念仏の教えに聞かれました。しかしながら、延暦寺や興福寺による念仏禁止の圧力は厳しく、ついに承元元年(1207年)2月、住蓮房・安楽房ら4人が死罪に、法然上人はじめ8名が流罪となり、親鸞聖人は藤井善信(ふじいよしざね)の罪名で越後の国へ流されました。
越後での生活の中で、聖人は恵信尼(えしんに)様との間に幾人かの子をもうけられました。そして、自ら愚禿(ぐとく)釈親鸞と名乗られた聖人は、念仏の教えをいなかのひとびとの生活のうえに開かれていかれたのです。
聖人は罪を許されてからも、京都にはもどられず、建保2年(1214年)、42歳のとき関東の地に移られ、その後約20年にわたって本願念仏の教えを伝え続けられました。
60歳をこえたころ、親鸞聖人は京都に戻られました。その理由ははっきりしませんが、『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)をはじめとする著作を通じて、浄土真宗の教えを遠い未来の人々に残そうとされたためではないかと思われます。
弘長2年(1262年)11月28日、親鸞聖人は90年の生涯を閉じられました。真実に生きられた聖人の願いは、今なお限りない念仏の声となって、無数の人々を仏道に向かわしめているのです。
蓮如上人は、応永22年(1415年)、存如上人の長男として、誕生されました。6歳の時、最愛の母との別れを経験され、そのときに母が残した「親鸞聖人の教えを広めてください」との言葉を、生涯にわたって大切にされました。そして、参詣の人もなく、さびれ果てた当時の本願寺にあって、上人は親鸞聖人の著書『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)などをひたすら学ばれました。
43歳の時、父・存如上人が亡くなり、本願寺第8代となられます。その後、蓮如上人は近畿・北陸・東海などで精力的に教化活動を続けられますが、寛正6年(1465年)、本願寺の繁栄を快く思わない比叡山延暦寺の衆徒らによって、大谷本願寺が破却されてしまいます。蓮如上人は、近江の堅田・金森の地を経て、文明3年(1471年)、越前吉崎に逃れました。そして吉崎の地から、親鸞聖人の教えをわかりやすくお手紙の形式にした『御文(おふみ)』を、全国の門徒に送られ、さらに『正信偈』や『和讃』を開板されて、真宗門徒のお勤めの原形をつくられました。
75歳で寺務を子の実如上人に譲り、83歳の時には大坂に石山御坊(後の石山本願寺)を建立、そして明応8年(1499年)3月25日、蓮如上人は山科本願寺で真宗再興に尽くした85年の生涯を閉じられました。