本堂概観

 長福寺本堂は上町通りに向かって西面して建ち、桁行9間(正面通り7間)梁間8間の、入母屋造・本瓦葺で、正面に向拝1間、北側面と背面には下屋を設け、正面側三方に落縁を廻しています。本堂前の燈籠は、元禄13年(1700年)に中村氏により寄進されたものです。

 

 本堂の建築年代は、記録から寛文9年(1669年)とされていましたが、今回の解体調査により、外陣中央間仕切り部分に存する蓑束上部の実肘木から「寛文八年六月豊後之國日田郡友田村ノ住人(後)藤作之丞作之」の墨書が発見され、寛文期に建てられた事が明らかとなりました。

 

 長福寺本堂の御本尊は、14世紀後半の作といわれる木造阿弥陀如来立像で、他に寛永元年(1624年)の親鸞聖人御影、寛永8年(1631年)の蓮如・七高僧・聖徳太子御影を奉安しています。また、両余間壇には、寛文当初の蓮池図が描かれています。両余間側面の襖絵は、いずれも日田市出身の日本画家の手によるもので、左余間には岩澤重夫氏(日本芸術院会員)の「大心海」、右余間には木下章氏(京都芸大名誉教授)の「白木蓮富貴花図」が描かれ、両余間内外陣境にある馬場良治氏(建造物彩色選定保存技術保持者)の襖絵「杉林図」とともに、堂内の荘厳を一層際立たせています。

 


保存修理工事

 長福寺本堂は、九州最古の真宗寺院本堂として、建立当初の姿をよく伝える貴重な建物であることが評価され、平成7年(1995年)に大分県指定有形文化財に指定されました。その後、経年の劣化から柱が著しく傾斜し、瓦の破損、小屋組の緩みや腐朽などが急速に進んだため、(有)夢和詩生伝統建築研究所の設計管理、(株)奥谷組の施工により、大分県、日田市、文化財保護・芸術研究助成財団の助成を受けて、平成14年度(2002年度)から4年度にわたる平成の保存修理工事が行われました。

 

 保存修理中の調査により、建立後の本堂は、親鸞聖人や蓮如上人の御遠忌にあわせ、下記の通り6期にわたって平面・内外観が変化していったことが判りました。これらの改変は、真宗寺院の宗教作法の変化に伴い、間取りを改変していったものと考えられます。

 

 今回の保存修理にあたっては、専門家、行政担当者、寺役員らで構成された専門委員会で修理方針の検討を重ね、その結果、長福寺本堂は寛文当初の形式を基本としつつ、堂内の荘厳が整った享保期に復元されています。

保存修理前の本堂
保存修理前の本堂

本堂の変遷過程

元禄期(1702年) 余間壇を設置する
亨保期(1722年) 三つ並び仏壇形式から後門形式に改変する
文化期(1809年) 矢来の間を位置付ける
弘化期(1846年) 屋根を拡大し、右鞘の間西側を増築する
明治期(1884年) 広縁外に建具を設置する
昭和期(1926年) 左鞘の間を大屋根に納め、右鞘の間南側を増築する

 

国重要文化財そして日本遺産へ

 平成18年(2006年)3月に保存修理工事が完了して間もなくの4月21日、文化審議会は長福寺本堂を重要文化財(建造物)に指定するよう、文部科学大臣に答申しました。これを受けて同年7月、長福寺本堂は近世の真宗寺院を代表する建造物として国重要文化財に指定されました。さらに平成27年(2015年)4月には日本遺産「近世日本の教育遺産群-学ぶ心・礼節の本源」の構成文化財にも認定され、長福寺本堂はその評価を一層高めています。

長福寺本堂の評価

文化庁

 長福寺本堂は、九州地方において17世紀に遡る数少ない浄土真宗本堂であり、古風な建立当初の形式をよく残す遺構として、高い価値がある。また、近世初期の町割の構成をよく残す豆田町重要伝統的建造物群保存地区にあって、町の形成期に遡るものであり、景観上も核となる遺構として、重要である。

 

大河直躬/千葉大学名誉教授

 堂内のほとんどの柱が角柱であることや、柱や束の上に載る実肘木に彫られた装飾文様の特徴などから、この本堂が江戸前期の寛文年間ころに建てられた建築であることは明らかである。京都府やその近くの滋賀県などを除くと、建築年代が17世紀のなかば近くまで遡る本格的な浄土真宗本堂が残っている府県はごく少ない。

永井規男/関西大学教授、長福寺本堂保存修理工事専門委員長

 長福寺本堂は、現存する九州最古で、全国的にみても古いほうに属する真宗寺院本堂である。また、これまでの保存もよく、建立以降の平面・構造の改造による変遷の過程を明確にでき、九州地方をはじめとする真宗寺院本堂の変容を窺う上での基準を提供することができたことに高い価値が認められる。