豆田の町を見つめて

 日田市豆田町伝統的建造物群保存地区の中央にあって、今に浄土真宗の教法を伝える、天正12年(1584年)開山の寺が照雲山長福寺です。山門を入ると川石を割った敷石の参道が本堂へと続いています。寛文9年(1669年)に再建された本堂の美しさ、荘厳さに、歴史の重さと先達の願いの深さを感じます。仏の教えに聞く道場として建立されたこの寺には、それぞれの時代に数多くの人々が足を運び、本堂に座ってきたのです。 

 

 境内には三百年余の樹齢を重ねた欅(けやき)の老木をはじめ、樟(くす)、いちょう、椋(むく)などの大木、梅、桜、槙(まき)、泰山木、木蓮、つつじなどの木々や、秋海棠(しゅうかいどう)、紫蘭、あやめ、萩などの花々が、四季折々の姿を演出し、うぐいす、めじろ、かわせみ、いしたたき、ほおじろ、もずなどの鳥たちが、それぞれに美しいハーモニーを奏でています。境内を流れる小川のせせらぎも、昔と変わることはありません。 

 

 平成18年(2006年)春、3年以上の保存修理を終えて甦った本堂は、これからも豆田町の遷り変わりを見つめ続けることでしょう。


長福寺のはじまり

 天正12年(1584年)、宗榮が城内村に庵を結んだのが長福寺のはじまりです。『長福寺年譜』には、「大友氏の家臣であった武内山城守が、黒田如水に仕えるため、筑前に向かう途中、はき山という所で馬の蹄に何かが当たりました。山城守が馬を下りてみると、そこには浄土真宗二百御丈の御本尊が落ちていました。『これは出家して浄土往生を願いなさいとの、如来様の思し召しに違いない』と直感した山城守は、馬を返して城内村に入り、僧侶となってその絵像を本尊とあがめ、ついに往生の本懐を遂げました」と伝えています。


長福寺の歴史

※年表をタップすると拡大します。

長福寺の学僧

 長福寺は、優れた学僧を輩出したことでも知られています。 学寮創建時の住職であった10世通元(正徳3年~天明6年)は、広円寺(日田市隈)から入寺し、黄檗版大蔵経を紐解いて、龍樹の『易行品』を研究し、その注釈書である『読易行品』三巻を完成させました。

 

 11世普明(元文2年~文化2年)は、宝月としてその名を知られる学僧で、筑後永福寺(福岡県久留米市)から長福寺に入寺し、本山の高倉学寮でも研鑚を重ね、天明2年(1782年)、擬講となりました。また宝月は詩文にも長け、とりわけ「舟過姫島」と題された七言絶句「大海中分玉女峰 娥眉翠黛爲誰容 我将明月遥相贈 影湧瑶臺十二重」は有名で、後に広瀬淡窓が九州三絶と賞賛した名句です。

 

 12世法幢(宝暦9年~文化10年)は宝月の二男で、広瀬淡窓とも関係が深く、8歳の淡窓に詩経の句読を授けました。なお淡窓は、文化2年(1805年)に長福寺学寮を借りて開塾しており、これが咸宜園の前身となります。

 

 法幢の弟法海(明和5年~天保5年)は、肥後光徳寺(熊本県八代市)に伝住し、号は日南・橘州、易行院と称しています。高倉学寮に学んで研鑚を積み、文化2年(1805年)擬講、文化11年(1814年)嗣講となり、文政11年(1828年)、ついに学僧の最高位である第8代講師に任命され、生涯にわたって宗義の発展と統制に尽くしました。

参拝のご案内

ご門徒の皆様へ 

 長福寺では、本堂でお葬儀やご法事をおつとめすることができます。また、仏前結婚式や初参りも受けつけております。どうぞお気軽にご相談ください。

 

一般の皆様へ 

 本堂内は通常は公開しておりません。参拝をご希望の方は、事前にお申込みください。